寛永7年(1630年)に名古屋の七間町(今の丸の内地区)が山車の上に京の五条橋の模型を乗せ,大薙刀の弁慶と牛若丸のからくり人形が渡り合う橋弁慶車を作って以来,現在まで名古屋から周辺地域に精巧なからくり人形山車が広がっていきました。この豪華な山車を「我らが町,田原にも」と,当時の本町の世話人たちが大変な努力と苦労をして作られたものが田原市本町の神功皇后車です。名古屋の一流職人を総動員して,作らせたもので,お祭り棟九郎と,その技を謳われていた山車職人,森棟九郎が山車を作り,からくり人形は門前町万松寺の六代目玉屋庄兵衛の作です。さらに水引幕の刺繍は五雲斎と雅号をもつ刺繍職人が大丸の名古屋店であった「大丸屋」と制作したようです。(大丸名古屋店は,享保13年,名古屋本町4丁目に「大丸屋」の名で開店。明治43年に閉鎖。参考資料「大丸ホームページ」)その総経費は明治中期の金で1,019円38銭9厘でした。本町山車の唯一の古文書である福沢三三氏の『山車新調費明細調』(明治廿九年九月廿三日)に職人の名前,経費など明細に記載されています。なお,山車の輸送も万全を期して,陸路を運ばれたようです。山車は総桧造で,二層唐破風屋形,四輪(外輪)を輪がけで覆い,天井は金箔押し,合天井,庇,柱,勾欄は黒漆塗りに飾り金具を付けられている完全な名古屋系の山車です。上山(大将座又は人形舞台)の勾欄の中にある彫刻も,前面の波は川波を表現するため蜻蛉を波間に配し,両側面と後面には緑の地に草花を配し川堤を表現し,水引幕も急流の岩に砕け波打つ川面に鮎が描かれています。大幕の金具類も本町の紋,「雪輪」を形どり,本町の山車として完全な形で残されています。一度,修復されましたが,購入当時の形態が良く保存されています。山車,からくり人形及び付属品等は,昭和63年7月1日に田原市(当時は田原町)の有形民俗文化財第二号の指定を受けました。(参考文献「本町の山車」)
(有松にも同様の神功皇后車があります。有松の武内宿禰は立ち上がって歩きます。また,前立人形は田原市萱町のおべろべいと同様の采振り人形です。ちなみに有松の神功皇后車の水引幕は,渡辺崋山の子である渡辺小華の絵が刺繍になっています。)